夜の帳が下りて来た。すっかり暗くなってしまった部屋で千尋は膝を抱えて座ってる。警察官が帰った後、千尋は必死でヤマトを探し回った。長井が倒れていたという歩道橋の下にも行ってみたし、初めてヤマトと会った場所もくまなく探した。そして保健所まで捜しに行ったが、結局ヤマトを見つけることは出来なかった。もしかすると自分が不在の時に家に帰ってきているのではないかと思い、急いで帰宅してみれば予想は見事に覆された。 目の前にはヤマトの餌と水が置かれている。「ヤマト……」千尋は今日1日一切食事をとっていなかった。祖父が亡くなってから1日たりとも側を離れなかったヤマトがいない。胸にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。好きな料理を作る気力も残っていなかった。「どこへ行ってしまったの? ヤマト……あなたまでいなくなったら私本当に独りぼっちだよ……」千尋は肩を震わせて泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠りについてしまった。「う……ん……」眩しい朝日が千尋の顔に当たった。「え?」千尋は慌てて飛び起きると自分の今の状態をぼんやりと考えた。「確か、昨夜はヤマトが帰って来るのをこの部屋で待っていて……それでそのまま眠ってしまった……?」時計を見ると6時を指している。床で眠ってしまった為、身体中がズキズキと痛む。「……取り合えずシャワー浴びよう……」ノロノロと起き上がり、着替えを自分の部屋から取ってくると脱衣所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて着替えた。「食欲……無いな」昨日から何も口にしていないが、何かしら食べないと。そう思った千尋はバナナをカットしてガラス容器に入れると冷蔵庫から無糖のヨーグルトに蜂蜜をかけた。「いただきます」手を合わせ、ゆっくりと口に運ぶ。たった1人きりの食卓がこれ程寂しいものだとは思わなかった。「私って……こんなに寂しがりやだったんだ」千尋はポツリと呟いた。本来なら今日も仕事を休んでヤマトの行方を捜したかった。けれどもいつまでも店を休んで職場の皆に迷惑をかけるわけにはいかない。それに働いていれば寂しさも紛れる。「今日は出勤しよう」千尋は簡単な朝食を済ませ、片付けを終えると中島の携帯にメッセージを送った。『本日は出勤します。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした』(お弁当、作り損ねちゃったからコンビニに寄ってから出勤
パートの渡辺は本日休みの日になっていたので、千尋はその分も接客やら配達等で退勤時間まで一生懸命働いた。常連客は久々に見る千尋の姿に喜び、多めに商品を購入していく客もあった——**** 1日の業務が終わり、シャッターを閉めた後中島は千尋に尋ねた。「青山さん、今日はこの後どうするの?」「本当はすぐにでもヤマトを捜しに行きたいところですが、家に帰ってヤマトを待ちたいと思います。家に戻ってきた時私がいないとヤマトが寂しがるので」「そう……ねえ、青山さん。ビラを作ってみる気はない?」「ビラですか?」「うん、ビラ。ヤマトの写真入りのビラを作るのよ。この犬を探しています。お心当たりの方は連絡を下さいって。連絡先はフロリナ>にして。この店にもビラを貼ってあげるから」「いいんですか?」「勿論、だってヤマトはこの店のマスコット的存在だったんだから。他にも得意先のお店とかにお願いして貼らせてもらうのよ」千尋の表情がパアッと明るくなった。「店長、それすごく良いアイデアですね! 是非お願いします!」「任せて、知り合いの人でDTPデザイナーの人がいるからビラを作ってもらえないか頼んでみるね。それじゃ、帰りましょうか?」「はい!」 中島は千尋と別れた後里中に電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、里中が電話に出た。『はい』「もしもし、中島です」『こんばんは。連絡くれたんですね。千尋さんの様子はどうですか? ヤマトは見つかったんですか?』「それがまだ見つからないのよ。でもヤマトを探すビラを私が知り合いに頼んで作って貰おうかと思ってその話をしてみたらすごく喜んでくれたの」『俺にもヤマトを探すの手伝わせて下さい』その話に中島は驚いた。「大丈夫なの? 長井の面会に行くんじゃなかったの?」『もう長井とは会いません』「どうして? 何があったの?」『あいつ……頭がおかしくなってしまったんです。もう俺が誰かも分からなくなっていました。それどころかすごく憎まれているようで警察からも長井とは今後会わないように言われました。俺がいると余計長井の具合が悪化するって』「そうだったの…」『時間が取れる限りヤマトを探す手伝いをしたいので、ビラが出来上がったら俺にも分けて下さい。お願いします』「本当にお願いして大丈夫?」『はい。うちの病院の患者さん達もヤマトに会いた
12月に入り、世間はクリスマス一色に染まっていた。<フロリナ>でもクリスマス用にアレンジされた植木鉢や小ぶりなもみの木、ゴールドクレスト、リース等が店頭に並び、それらを買い求める客で店内は賑わいを見せ、千尋をはじめ店員たちは対応に追われていた。 ようやく客足が途絶えたのは13時を回っていた。「青山さん、原君、遅くなったけど昼休憩に入っていいわよ」「え? 俺も青山さんと同じ時間帯に昼休憩入っていいんですか?」原は首を傾げた。「大丈夫よ、気にしないで行ってきて」「良かった~腹が減ってどうしようもなかったんですよ。助かります!」言うが早いか、原はエプロンを外すとすぐに外へ食事をしに行ってしまった。「店長はどうするんですか?」千尋は尋ねた。「あ~私は昼休憩はいいわ、でも3時のおやつ休憩は多め長めに取らせてね」「分かりました。それじゃお昼行ってきます。休憩室にいるので何かあったら呼んでくださいね」「あら、いいってば。お昼休みはしっかり休んで。そうじゃないとブラック企業なんて世間で言われちゃうから」中島は冗談めかして言った。「はい、では遠慮なくお昼休憩取らせていただきます」クスリと笑うと千尋は休憩室へ入っていった。 休憩室は広さ6畳ほどの部屋で、木目調の丸い食卓テーブルセットと食器棚が置いてある。壁際にはソファベッドも置かれて居心地の良い空間になっている。電子レンジやポット、ガス台に流し台もあるのでちょっとした料理も出来るので非常に便利である。千尋はヤカンでお湯を沸かすと、食器棚からペーパーフィルターとドリッパー、それに昨日コーヒーショップで挽いてもらったコーヒーをセットしてお湯を注いだ。部屋中にコーヒーの良い香りがする。「そうだ! 店長にもコーヒー淹れて持って行ってあげよう」食器棚に置かれている中島のコーヒーボトルを取り出すと千尋は慎重にコーヒーを注いで蓋を閉めた。店の様子を覗いて見ると中島は丁度接客中だったので千尋は一度顔を引っ込めてメモを書いた。<コーヒーを淹れたのでお手すきの時にどうぞ —青山>メモとコーヒーボトルを店内に置かれているデスクに置くと、休憩室に戻った。今日のランチは手作りのサンドイッチである。バゲットにレタスやハム、キュウリを挟んだもの、もう一つはスクランブルエッグを挟んだバゲットだった。「いただきます」
この2か月の間に様々な事があった。千尋をストーカーしていた長井の元へ両親は事件後、警察に呼ばれて上京してきた。特に母親は変わり果てた息子を見て、その場で泣き崩れてしまったと言う。その後、息子の手術に必要な書類の同意書にサインをし、無事に手術が終了すると長井を車椅子に乗せて地元北陸へ戻って行った事を千尋は警察官から聞かされた。結局、長井は重度の精神疾患で責任能力が無い。と言うことで罪に問われることは無かった。警察の話によると、未だに長井は精神状態が回復することは無いばかりか、ますます意思疎通が出来なくなってきていると言う。しかも白い犬に対して異常なほどの恐怖心を抱いているらしい。(一体、ヤマトとあのストーカー男性との間でどんなことがあったんだろう……。あんな状態で無ければ人づてにヤマトのことを聞けるのに)時々、千尋は考える。あの時自分にもっと勇気があればヤマトがいなくなってしまう事態にならなかったのでは無いかと。「ヤマト……」千尋はポツリと呟いた——****「里中、クリスマスイブの日、何か用事あるか?」仕事が終わり、ロッカールームで着替えをしていると、後から入ってきた近藤に声をかけられた。「何すか? 先輩。別に用事なんか無いですけど。って言うかそれ分かってて聞いてますよね、絶対!」里中は仏頂面で言った。「いやあ~実はこの日、彼女とデートなんだ。悪いけど俺と遅番変わってくれないかと思って。お前、確かこの日は早番だったよな? やっぱりクリスマスイブって特別なものじゃん? 昨日奇跡的にお洒落なイタリアンの店の予約を取ることが出来たんだよ! この店、すごく人気あるんだ。彼女に予約取れたこと話したら大喜びしてたぜ。男なら彼女と二人でロマンチックなクリスマス祝いたいって誰だって思うだろう? な? 頼むよ」パンッと近藤は手を合わせ、里中を拝むような態度を見せた。「……じゃ、条件があります」「ん? 何だ? 条件って?」「明日の夜、俺に酒奢ってくれたら替わってあげますよ!」「な~んだ、そんなことか。いいって、いいって。俺とお前の仲だ。好きなだけ奢ってやるよ!」「いいんですか? 先輩そんなこと言って。俺、浴びるほど飲みますよ?」「おう! 望むところだ!」有頂天になってる近藤を尻目に里中は深いため息を吐いた。「あ~俺も彼女欲しい……」正直な
「うわあっ!?」突然現れた男に里中は驚きのあまり、締まりのない声をあげてしまった。「な、何だよ? いきなり突然現れて! お前、誰だ?」まだドキドキする胸を押さえながら里中は男に言った。「え……と、僕はここの病院の守衛をしている者です。あなたに謝りたいことがあって」「謝りたいこと?」里中は守衛の顔をまじまじと見た。そして……。「あ~! お前、一度だけ千尋さんのことについて俺に聞いてきたことがあった奴じゃないのか?」「はい、そうです……」男はうなだれている。「俺に声をかけてきたってことは何か話があるんだろう?」「……どうしてもあなたに謝っておきたい話があって」「謝りたい話?」「実は、長井さんに脅されて花屋の女性の情報を漏らしていたのは僕なんです」「何だって?」里中は守衛の男から突然長井の名前が飛び出してきた事に緊張が走った。「一体、どういう意味なんだ?」「実は僕、長井さんとは昔からの知り合いで……色々便宜を図ってくれてたんですよ。僕っていかにも駄目人間に見えるじゃないですか? と言っても中身も本当に駄目人間なんですけどね。この仕事を紹介してくれたのも長井さんのお陰なんです」里中は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。「そんなある日、長井さんに言われたんです。病院に花を持って来てくれる女性は何処の誰なのか教えろと。ほら、業者の人達も守衛室で受付する為に名前を書くじゃないですか? それで僕に聞いてきたんです」里中は黙って聞いている。「そこで僕は彼女がいつここに来ているのか、どこから花を届けに来てくれているのか調べて長井さんに報告していたんです」「……俺の事を長井にしゃべったのもお前の仕業なのか?」「い、いえ! それは絶対に違います! あなたのことは偶然駐車場にいる花屋の女性と会ってるのを長井さんが見つけて、嫉妬にかられたんだと思います。今まであんな恐ろしい目をした長井さんは見たことがありませんでした」「そうか、やっぱりあの視線は長井だったのか。でもどうして今頃になってそんな話を俺にしたんだ?」「僕、今月いっぱいで仕事を辞めることにしたんです。実は長井さんの件で警察の人が何度もやってきて職場の人達にも長井さんが犯罪者で、僕は長井さんの紹介で働いていることも知られてしまったんです」「……自分の意志で仕事辞めるのか?」里中
――翌朝7時 いつものように千尋は台所に立ち、お弁当の準備をしている。今日は遅番の日なので、普段よりは朝が遅めである。冷凍焼きおにぎりをレンジで解凍し、アスパラと人参を茹でてる間に卵を手早く溶き、水・めんつゆ・だしを加えてフライパンで器用にだし巻き卵を作り、皿に移す。それらを冷ましている間に朝食を食べる事にした。 最近千尋の朝は和食からパンに切り替わっていた。新しく商店街にコーヒーショップがオープンし、そこで挽いてもらったコーヒーを毎朝ドリップして飲むのが習慣となっていた。その為に朝食は自然とパンを食べるようになったのである。千尋が特に好きなコーヒーはコロンビア。甘い香りとコクが特に気に入っている。トーストにサラダ・コーヒーと簡単な朝食を食べ終わると、お弁当を詰めた。 「さて、そろそろ行こうかな」千尋は時計を見ると立ち上がった。戸締りを確認し、玄関のカギを閉めると千尋は出勤した。 千尋が去った後をじっと見つめている人物がいた。昨夜千尋の家を見つめていた青年だ。「……ごめん、千尋」青年は呟くと、千尋の家の門を開けて中へと入った——****「それじゃ、配達行ってきますねー」荷物を抱えた千尋が中島に声をかけた。「はい、気を付けて行ってきてね」中島に見送られ、千尋は軽トラックに乗ると出発した。今日は千尋の外回りの日である。届け先は全部で10か所。12月にもなると注文が増えて件数が多いので時間が結構かかってしまう。その為、今日はお弁当持参で外回りをすることになった。「え……と、最初のお客様は……」千尋はお届け先住所をナビに打ち込んだ。「よし、それじゃ行こう」ルートが設定すると千尋はアクセルを踏んで車を走らせた——**** 千尋が全ての配達を終えて店に戻ってきたのは16時を過ぎていた。「ただいま戻りました」「お疲れ様、千尋ちゃん」出迎えてくれたのは花の手入れをしていた渡辺だった。 「お店、混みませんでしたか?」「うん、忙しかったけど大丈夫だったわよ。店長も原君もいたしね。それよりも、千尋ちゃんがいない時に男の人が訪ねてきたわよ」「男の人? 私にですか?」そこへ接客を終えて中島がやってきた。「すっごく格好いい若い男性だったわよ~。いつの間に彼氏なんて作ってたの?」「え? ちょっ、ちょっと待って下さい。私彼氏なんていませ
17時半—― 里中は近藤と居酒屋に来ていた。「ほら、お前との約束通り今夜は俺が奢ってやるから好きなだけ飲め!」近藤は機嫌良さそうに言った。「それじゃ、俺遠慮なく飲ませてもらいますからね。あ、つまみも勿論先輩が奢ってくれるんですよね?」「ああ、いいぞ。遠慮するな」「はい、それじゃ……」里中はメニューにざっと目を通すと手を挙げて大きな声で店員を呼んだ。「すみませーん!! 注文いいですか?」「はい、お待たせしました」学生バイトと思わしき男性がオーダーを取るハンディーを持ってテーブルにやってきた。「え~と……まずはジョッキで生ビール。あと鶏のから揚げと揚げ出し豆腐に枝豆。揚げ餃子にジャガバター、焼きおにぎりをお願いします」オーダーを受けた店員が去った後、近藤がきた。きた。「おい……お前そんなに頼んで食べきれるのか?」「食べれなきゃ注文なんてしませんよ」「いや、それにしても……そんな身体の何処にあれだけの量が食えるんだ?」里中は細身の体で、ジム通いしているので引き締まった身体をしている。「好きなだけ注文していいって言ったのは先輩じゃないですか」「いや、確かにそうなんだけどさあ……」「先輩は何も食べないんですか?」「え!? お前、あれ一人で食う気だったのかよ? てっきり俺とお前の2人分だと思っていたぞ?」「俺はそれでも構わないですけど? でも先輩、俺が頼んだメニューでもいいんですか?」「ああ、俺は好き嫌い無いからな。でも酒は注文するぞ」そして手を上げると近藤は店員を呼んだ。「生ビールグラスで」店員が去ると、里中は尋ねた。「……先輩」「うん?」「もしかして、アルコール苦手ですか?」「ハッハッハッ……何を言い出すんだ? 俺はアルコールは得意だ!」それから約1時間後—―「確かに俺の彼女は可愛くていい子なんだけどさ~。ちょっとだけ贅沢な所があるんだよ。デートの時お金出すのはいっつも俺だし……まあ、それはアレだな。男の方が金を出すのは当然かな? とは思ってるよ。でも毎回高級な店で食事したがるのはどうかと思わないか? ……あ、彼女のいないお前に聞いても分からないか……」たった1杯の生ビールで近藤はすっかり酔っぱらってしまい、顔を赤くしてブツブツと愚痴ばかり言っている。「からみ酒かよ……。あーもう面倒だなあ。確かに今の俺に
「あの……」千尋が近づいて声をかけると青年は弾かれたように振り返り、目を大きく見開いた。自分を見た時の男の表情の変化に気付きながらも千尋は話しかけた。「ひょっとしてこのお店で働く原さんのお友達ですか? もうすぐ原さん、出てくると思いますけど、呼んできましょうか?」青年は黙って千尋を見つめていたが、やがて徐々にその顔には笑みが浮かんできた。「あの、どうされましたか?」「会えた……」青年の口が開いた。「え?」「やっと、君に会うことができた。……千尋」まるで子供のように、ニッコリ笑う。「どう……して私の名前を知ってるんですか?」「僕の名前は渚……間宮渚」「間宮……渚……?」千尋は名前を口にして渚の顔を見上げた——****「ほら! 先輩、しっかり歩いてくださいよ!」里中はすっかり酔い潰れてしまった近藤に肩を貸して夜の街を歩いていた。「う~ん……もう飲めない……」むにゃむにゃと呟き、殆ど眠っている状態の成人男性に肩を貸すのは容易ではない。「全く! たかだかあの程度の酒で酔うなんて信じられないぜ」ぶちぶちと文句を言う里中。結局あの後ビールで気分が良くなったのか、里中が止めるのも聞かずに近藤は日本酒やらハイボール等を飲んでしまい、完全に潰れてしまったのである。そこで里中は悪いとは思ったが近藤の上着をあさり、財布を見つけると会計をしてしまった。「勝手に支払いしてすみません」里中はレシートの裏にメモを書くと近藤の財布に戻し、カウンターで酔いつぶれている近藤の肩を揺さぶった。「ほら、先輩。帰りますよ」「んあ?」近藤は頭を上げた。「しっかりして下さい、帰りますよ。ほら、立てますか?」近藤の腕を掴んで立ち上がらせた。「うん、うん。俺は大丈夫だ。1人でお家に帰れるのだー!」店内に酔っぱらった近藤の声が響き渡る。一緒にいる里中は恥ずかしくてたまったものではない。「分かりましたから、そんな大声で喚かないで下さい。ちゃんと聞いてますから」「うん、うん、さすが俺の後輩。聞き訳がよろしくて結構である!」赤ら顔でうなずく近藤を見て、4里中はもう二度とこの男とは一緒に酒を飲むのはやめようと心に決めたのであった。 近藤の肩を貸して歩きながら居酒屋での恥ずかしい顛末を思い出し、里中は頭を振り、記憶から追い払おうとした。「俺1人じゃ先輩
運ばれてきた料理を3人で食べると千尋は帰って行った。「今日は悪かったな? 今度は二人きりで食事出来るといいな?」職場に戻りながら近藤が里中に声をかける。「何言ってるんすか? 先輩が気を利かせてあの場から居なくなってしまえば二人で食事出来たのに」「ひっでえなあ、それが先輩に対する口の利き方かあ?」わざとお道化たように話す近藤を里中は苦笑いしながら見ていた。**** その後――千尋と渚は約束通り、二人が休みの日は色々な場所へと出掛けた。動物園、映画、遊園地、ドライブ……渚が行ってみたいと言っていたありとあらゆる場所へと足を運んだ。渚は始終楽し気にしていたが、何故か寂しげに見える姿が増えてきた。けれど千尋はそのことには一切触れなかった。(きっと時がたてば、渚君の方から話してくれるはず……)そう信じて疑わなかったのである。 ――2月のある日のこと「ねえ、渚君。今日はお休みでしょう? 私は仕事だけど何か予定あるの?」千尋が朝食を食べながら尋ねた。「え? うううん。特には無いよ。しいて言えば……家電製品でも見てこようかなと思ってる」「何か買いたい家電製品あるの?」「うん、ブレンダーかミキサーでもあれば便利かなって。あ、でも買うかどうかはまだ未定だけどね」「そうなんだ。良いのが見つかるといいね」「そうだね……」渚は曖昧に笑った。 仕事のない日はいつもそうしているように渚は千尋を店の前まで見送った。「それじゃ、仕事頑張ってね。今夜のメニュー楽しみにしておいてね」「ありがとう、それじゃまた後でね」千尋は笑顔で手を振ると通用口から店へ入っていく。その姿を見送ると渚は駅へ向かった——**** バスを乗り継ぎ、渚は市内一大きな総合病院の前に立っていた。千尋が編んでくれたマフラーで口元を隠し、帽子を目深に被ると渚は病院の中へと入って行った。渚は入院病棟に来ていた。辺りを見渡し、人がいないのを見計らうと個室の病室へと入って行く。その個室には若い男性が眠り続けていた。ベッドの柵に取り付けられているネーム札には年齢も名前も記入がされていない。「……」拳を握りしめ、黙ってその患者を見下ろしていると、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。「!」慌ててロッカールームに入って、隠れる。けれど足音は遠ざかって行った。入り口に耳を付け
それから暫くして千尋がリハビリステーションにやってきた。野口と新年の挨拶を交わしている。丁度手が空いていた里中は主任が去り、千尋が一人になると近づいた。「おはよう、千尋さん」「あ、おはようございます。里中さん、新年明けましておめでとうございます」千尋は頭を下げた。「あ、そうだったね。明けましておめでとう」里中も頭を下げた。「あの……千尋さん」「はい、何でしょう?」「実はこれなんだけど……」里中はポケットから紙袋を取り出した。「?」「俺、年末年始里帰りしていて千尋さんにお土産を買って来たんだ。もし良かったら受け取ってもらえないかな?」そして千尋に紙袋を手渡した。「私にですか?」里中は黙って頷いた。「今見ても?」「ど、どうぞ」中から出て来たのは色鮮やかなパワーストーンのブレスレットだった。千尋は目を見張った。「うわあ……綺麗。でも、こんな高価なもの頂くわけにはいきません」「あ、見た目は高そうに見えるけど、そんなんじゃないから。遠慮しないで受け取ってよ。ただのお土産なんだから」ハハハ……と笑うが、本当は気軽に渡せるような金額では無かった。(く~っ。今月は食費削らないとな……。だけど千尋さんの喜ぶ姿を見れたからいいか)「里中さん。お礼に今日のお昼ご飯、ここのレストランでご馳走させて下さい」「い、いや、何言ってるんっすか! 女の人に男がご馳走してもらなんて変ですって!」「でも、それじゃ私の気が済まないんです」千尋は食い下がる。(でも昼飯代浮くし、何より千尋さんと一緒に食べる事が出来るなら……)「それじゃ……よろしく」里中は照れくさそうに笑った——****「――で、何で先輩までここにいる訳ですか?」里中は面白くなさそうに近藤を見た。「まあまあ、そう言うなって。俺は先にここに来ていた、そしてお前たちがやってきた」近藤は得意げに言う。「はあ」里中は興味なさげに返事をする。「そして生憎、満席。けれど、俺が座っているテーブルは偶然にも2つ席が空いていた。そこで、二人をこの席に呼んだと言う訳だ」「ありがとうございます、近藤さんのお陰で席を確保する事が出来ました」千尋は嬉しそうに礼を述べる。「チエッ」里中は誰にも聞こえない様に小さな声で舌打ちをした。折角二人で食事が出来ると思ったのに、これでは何の意味も無
翌朝――渚と千尋は向かい合って朝食を食べていた。今朝の渚はいつもと全く変わりが無い様子だった。(一体、昨夜はなんだったのかな……?)「何? 千尋。さっきから僕のこと見てるけど」千尋の視線が気になったのか渚が話しかけてきた。「あ、何でもないの」「そう? 今朝の千尋はいつもと違う感じがするからさ」「あの……ね、渚君」「何?」「昨夜のことなんだけど……」「うん。あ、ごめんね。結局千尋に片付けさせちゃって」「すぐ眠れたの?」「勿論、日本酒を飲んだからかな~昨夜は眠たくてすぐに寝ちゃったよ」(やっぱり覚えていないんだ)千尋は心の中で思った。「え? 昨夜僕何かやっちゃった? 何も覚えていないんだけど……」「大丈夫、別に何も無かったから。ただ、今日から仕事初めだったから良く眠れたかなって思って」「千尋はよく寝れた?」「うん、寝たよ」本当は昨夜のことが気になって、あまり眠れなかったが伏せておいた。「ねえ、千尋」食後のコーヒーを飲みながら渚が尋ねてきた。「何?」「これからはさ、二人の休みが合う時は色々な場所へ一緒に出掛けたいんだ。駄目……かな?」「駄目なわけないじゃない。うん、一緒に出掛けよう」「良かった~。ありがとう」渚は子供の様に無邪気に笑みを浮かべた。そんな様子を千尋は黙って見つめていた――****「おはようございます!」千尋は元気よく出勤してきた。店には早番の中島と原が既に出勤している。「おはようございます。青山さん」ほうきで店の外掃除をしていた原が挨拶を返した。「おはよう、青山さん」切り花の世話をしていた中島も挨拶してくる。「青山さん、新年早々だけど今日は山手総合病院に行く日よね。道路の渋滞情報が出ていたから早めに出たほうがいいわよ」「ありがとうございます、それじゃ早めに準備して行きますね」****山手総合病院――患者のマッサージを終えた里中がポケットから小さな紙袋を取り出して、ため息をついた。「お? 里中、それ一体何だ?」近藤が目ざとく見つけ、背後から声をかけて来た。「べ、別に何でもないですよ」里中は顔を赤らめながら急いでポケットにしまおうとするが、近藤に奪われてしまう。「か、返してくださいよ!」「へえ~山梨県の土産の袋か。……そういや、お前の実家って山梨だったよな? 年末里帰りし
渚が仕込んだ味噌味の海鮮鍋は最高の味だった。「やっぱり渚君が作った料理は最高だね。流石調理師免許持ってるだけのことはあるね」千尋は鍋料理を笑顔で食べている。「ありがとう。千尋が選んだ日本酒も美味しいね~」「フッフッフッ。この日本酒はね、東北地方にある蔵元が作った日本酒なの。フルーティーで、とても日本酒とは思えない口当たりの良いお酒なんだよ。若い女性の間で大人気なんですって。だからついつい飲み過ぎちゃうんだけど」「ははは……。千尋は本当にお酒が好きなんだね。でも明日から仕事なんだからあまり飲み過ぎない方がいいよ?」「そうだね、また今度一緒に飲もうね。この先いつでも飲めるんだもの」「この先いつでも……か」一瞬渚の顔に影が差した。「どうしたの?」「ううん、何でもないよ。温かいうちに食べてしまおう?」 ****——食後「ほら、渚君はもう今夜は休んで」「でも片付けは僕がやるよ」「何言ってるの? 今日海で具合が悪くなったでしょう? 私がやるから大丈夫だってば」 食事が済んだあと、片付けをすると言って聞かない渚を千尋は無理に部屋に追いやった。渚は最後まで自分がやると言って聞かなかったが、やはり体調がまだ優れないのか最終的には千尋の言うことを聞いて部屋に戻って行った。「そうだ、どうせなら洗濯もしちゃおう」以前録画しておいたドラマを観ながら千尋は洗濯機を回した。 それから約1時間後、洗濯を干し終えた千尋が自分の部屋へ戻ろうとしたその時。「う……うう……」渚が使っている部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。「え? 渚君?」(もしかして具合でも悪いのかな?)「渚君、大丈夫?」声をかけてみたが返事は無い。それでも苦しそうな渚の声が聞こえる。「渚君、入るね」千尋は引き戸を開けた。中へ入ると渚はベッドの上で酷くうなされている。「渚君! しっかりして!」千尋は渚の枕元に行くと声をかけた。渚は苦しそうに寝言を言っている。「い……嫌だ……。助けて……」「渚君!」千尋は必死で渚を揺さぶった。その時である。「ハアッ……ハアッ……!」渚が突然目を開けて千尋を見た。そして一瞬泣きそうに顔を歪めるとベッドに横たわったまま千尋を腕の中に抱き込んだ。「キャアッ!」千尋は渚の身体の上に乗るような形になってしまった。「な、渚君……?
念の為にと持参していたシートに並んで座りながら二人は海を見ていた。真冬の海なので、人の姿はない。真っ青な水平線の海は青空の下、良く映えた。「渚君、冬の海って何だか綺麗に見えない?」風に吹かれた髪の毛を押さえながら千尋は渚に尋ねた。「そうだね。人もいないからゴミも無いし。だから余計に綺麗なんだろうね」「渚君の両親て、海が好きな人だったんじゃない? だって『渚』って名前付ける位なんだから」「さあ、どうなんだろう? 僕にはよく分からなくて……」渚は曖昧に返事をしたが、顔が強張っている。「渚君? どうしたの?」「え? 何が?」「何だか顔色が悪いみたいに見えるけど……?」「そんな事、無いよ……」渚は笑みを浮かべたが顔は青ざめている。「もしかして具合が悪いの? もう帰ろうか?」「うん……ごめんね。千尋」渚は何とか立ち上がったが足元がふらついている。「く……」額には汗が滲んでいた。「ねえ、渚君。無理しないで、少しここで休んでいこうよ?」すると渚は子供の様に頭を振った。「嫌だ……。この場所から離れたい……」「……分かった。それじゃ私に掴まって?」千尋は渚の大きな身体を何とか支えながら海から遠ざかっていく内に少しずつ渚の顔色が良くなってきた。****「大丈夫?」渚を休ませる為に近くのファストフード店に入ると千尋は心配して尋ねた。「ごめんね……千尋。折角二人で楽しもうと思ってたのに」「渚君……。ひょっとして……」海が怖いの? 千尋はそう尋ねたかったが、言葉を飲み込んだ。ようやく体調が良くなったのに、余計な話をして再び渚の体調を悪くさせるにはいけない。「何?」コーヒーの入った紙コップを手に渚は返事をした。「うううん、何でもない。コーヒー飲んだら帰りましょ?」「そうだね。明日からお互い仕事だしね。今夜の食事は何にしようかな……」「今夜も夜は冷えそうだから、お鍋なんてどう?」「それはいいねー。千尋はどんな鍋が好き?」「鍋料理は何でも好きだよ? 渚君は?」「それじゃ、今夜は海鮮鍋にしよう。帰りに駅前のスーパーで材料買って帰らないとね」 その後二人は再び電車を乗り継ぎ、地元スーパーで海鮮鍋の材料を買い込んで帰路に着いた——**** 二人で並んで台所に立ち、鍋の準備をしている。そんな渚を千尋は横目で見てみると、鼻
クリスマスも終わり、新しい年が始まった。千尋と渚は年末は家中の大掃除をし、新年は初詣に二人で出かけた後はお互い本を読んだり、カードやボードゲームで遊んだりと、好きなことをしてのんびり過ごした。そして休みの最終日――「ねえ、千尋。明日二人で一緒に出掛けない?」渚が外出を提案してきた。「うん、いいね。でも出掛けるって何処へ行くの?」「前に僕が千尋と行ってみたい場所を色々話したの、覚えてる?」「うん。覚えてるよ」「それじゃ、水族館に行ってみたいって話したことは?」「勿論、ちゃんと覚えてる」「早速行ってみようよ!」**** 電車を何本か乗り継ぎ、1時間以上時間をかけて二人は水族館にやってきた。この水族館は海沿いに建てられ、眺めも最高な場所にある。館内に入ると、中は子供の姿は殆ど見えず、若い男女のペアばかりだ。皆腕を組んだり、手を繋いでいる。「「……」」千尋と渚は顔を見合わせた。「手……繋ごうか?」渚が手を差し伸べてきたので千尋は遠慮がちに手を繋ぐと、渚は指を絡めてしっかりと握りしめてきた。千尋は驚いて渚の顔を見上げたが、渚は横を向いて目を合わせない。けれどその耳は赤く染まっている。なので千尋もキュッと握り返すと、渚がこちらを向いた。「行こうか? 渚君」二人で薄暗い館内を歩きはじめた。巨大な水槽が照らされて色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ姿やエイが優雅に泳ぐ姿、大きな白熊や可愛らしいラッコ・ペンギン……それらを二人で見て回る。 最後にイルカやアシカのショーを観覧したところで、海沿いのカフェで二人でランチを食べることにした。千尋はクラブサンドセット、渚はハンバーガーのランチプレートをそれぞれ注文をした。 「楽しかった? 千尋」「うん、とっても楽しかった。水族館なんてもう随分昔に行ったきりだったから」「誰と一緒に行ったの?」「う~ん。高校生の時付き合ってた人だったかな? でもその人とはあまり長くは続かなかったんだけどね」「千尋、付き合ってた人いたの?」渚は驚いたように尋ねてきた。「う、うん……。そうだけど?」「そっかー。残念だなあ」「何が残念なの?」「僕が千尋の初めてのデート相手じゃなくて」「デート……? デート!?」(そっか、これって一応デートに入るんだ。ちっとも意識してなかった)「あれ? そう思ってたのは僕だけだっ
「千尋……怪我は無い?」「う、うん。大丈夫。」「良かった……」渚は千尋を思い切り強く抱きしめると安堵の息を吐いた。「な、渚君……もう大丈夫だから。は、離して……」「え?」その時、初めて渚は千尋を抱きしめているのに気が付いたのか、顔を真っ赤に染めて慌てて千尋を離した。「ご、ごめん……。千尋が心配になって、つい……」「い……いいよ。そんなこと気にしなくて……あ! 大変! 鍋が噴きこぼれそうだよ!」「うわ! ほんとだ!」渚は慌ててガス台に戻り、火を弱めて料理に続きを始めた。その姿を見ていた千尋の心臓はドキドキいってる。(びっくりした……。まだ渚君の匂いが残ってる気がする……) パスタも出来上がり、テーブルの上には他にサラダとチキンが並べられた。ケーキは食後にと冷蔵庫に冷やしてある。椅子に座ろうとすると、渚が話しかけてきた。「そうだ! いいものがあるんだ」そう言うと席を立ち、大きな紙袋を持って戻ってきた。「なあに? それ?」「ほら、小さいけどクリスマスツリー買って来たよ」それはテーブルの上の乗りそうな小さなクリスマスツリーだった。「わあ。可愛い」千尋が喜ぶと更に渚は言った。「まだあるよ。はい、クリスマスプレゼント。…気に入るかなぁ?」渚は小さなラッピングされた袋を手渡した。「え? 私に?」千尋が中を開けてみるとそれは可愛らしい犬のデザインのネックレスだった。「犬の……」「うん、千尋は犬が好きなんだよね? だから探して買ってみたんだ。つけてあげるよ」渚は千尋の背後にまわり、ネックレスをつけると鏡を見せた。「良く似合ってるよ、千尋。すごく綺麗だよ」熱を帯びた渚の話し方に胸の鼓動が高鳴る。「あ、ありがとう」何とか、それだけを必死に言った。「実は私からもプレゼントがあるの」千尋は足元に置いておいた紙袋を渚に手渡した。「開けていいの?」渚の問いに千尋は黙って頷いた。「これは……」そこに入っていたのはダークグリーンのマフラーだった。「もしかして手編み?」「お店の休憩中に毎日、ちょっとずつ……ね。気に入ってくれるといいけど」渚はマフラーを巻き付けると笑顔を向けた。「勿論だよ! 僕の一生の宝物だよ」「一生だなんて、大げさだよ」「僕がどれほど今幸せか…言葉では言い表せない位だよ。ありがとう、千尋」その後、
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても